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first created: 2003-10-07
last modified: 2003-10-09

2003-10-05

部落解放とアナクロニズムと言論の自由

politics and freedom

毎日新聞アーカイブ住基ネット関係を探していたら、部落解放同盟(解同)中央執行委員長 組坂繁之 のインタビュー記事を見つけた。組坂繁之中央執行委員長はその記事のなかで、住基ネットから戸籍情報が洩れ、今なお続く部落かどうかの照会に繋がることを懸念、住基ネットに反対を表明していた。住基ネットに反対する僕としてはハッカーという言葉を安易に使う彼の発言に若干違和感を覚えながらも、住基ネットが国家による個人情報の管理を可能にするという危険を大きく孕んでいることには同じ意見である。

しかし、部落解放同盟のWebサイトを見ていて気になったことがあった。そのWebサイトにあるNEWS & 主張INDEXでまず目に留まったのは、読売新聞記者が兵庫県高砂市の掲示板に部落差別の書き込みを行ったことについて読売新聞社が謝罪したという記事である。» 読売新聞社が謝罪 ネット差別書きこみ事件で(部落解放同盟)

この事件は2002年7月、今からもう1年以上前に起こったものだ。部落解放同盟によると、7月29日、掲示板に ○○○○(実在の市会議員名)、ええかっこすんな! 部落民のくせに、○中にえらい圧力かけやがって。ぼけ!(○中職員より) という書き込みが行われ、その翌日、上記の書き込みを2度にわたり引用、さらに そうなんだ。どんな圧力だろう。体罰事件と関係あるのか。当該の議員はずいぶん、評判悪いよね。 と書き込まれていたらしい。

その後、発信者情報の開示を受け、この書き込みが読売新聞記者からのものだったことが判明、読売新聞社との4回にわたる話し合いののち、2003年7月25日、第1回糾弾会を中央本部で開いたとある。読売新聞社は人権を守る立場にある報道機関がこのような事件を起こしたことに対して謝罪、社員に対してはOnlineの掲示板などに不法・不適切な書き込みを行わないことを通達するとともに、メディアとして人権教育・啓発法についても特集記事等で啓発を促すとしている。

まず疑問に思ったのは、最初の差別発言は当の新聞記者が行ったものではないということ、その内容を引用し、部落出身者と名指しされた議員の評判が悪いと書き込んだことが同和関係者を差別するものといえるのだろうかという点だった。事実の真偽に関わらず名誉毀損は成り立つので、この発言によって名誉が穢されたと訴えるのであればまだ納得が行くが、これを差別発言として発言した個人ではなく、単なる雇用主である読売新聞社に糾弾会などで圧力をかけるのには納得できなかった。

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僕は品川で育った。だから部落差別といった同和問題は身近にはなかった。小・中でも同和授業なんてなかった。そのことを知ったのは僕が大人になってからだ。しかし、江戸時代に士農工商の身分制度の下に穢多・非人が存在したことは中学の公民の教科書か社会の教科書で知ったと思う。また、島崎藤村の小説「破戒」を読み、部落差別の不条理を感じた。僕の理解では皮革業や屠殺、そして芸人といった人間が身分制の下層階級の不満を押しつけるために幕府によってカーストの最下層に置かれたというものだった。

身近に部落が存在せず、簡単に歴史を習っただけの僕には、明治時代に入り、新平民として法的には穢多・非人の階級はなくなったとはいえ、それからも「部落民」として差別され、戦後も就職や結婚などで彼らが差別されてきたことは理解に苦しむ。彼らは在日でもない、僕らと同じ日本人だ。

しかし地方ではまだ部落に対して強い差別意識が残っているとされる。特に部落を多く抱える関西地方や北九州では同和教育がまだまだ盛んらしい。また、比較的年齢の高い世代では部落に対する差別意識というのは残っていることだろう。これは在日や朝鮮に対する差別意識が若い世代よりも年齢の高い世代で激しいことと同じだ(2ちゃんねるを見ているぶんでは若い世代も気狂いのように在日や朝鮮が大嫌いのように映るが)。

自分とは異質の文化や背景を持つものに対して差別意識や偏見を持つのは人間として至極当然のことと思う。それはまた恐怖感への現れかもしれない。だから僕は差別や偏見はこの世から決してなくならないと思う。勿論、僕はなくならないからと放置しろと言っているわけではない。もしそういった忌むべき差別や偏見を少しでもなくそうということであれば、その異質な文化や背景を持ったもの同士が混ざり合っていくほかないだろう。

部落出身者の血が汚れているとか、近親結婚を続けてきたから劣等遺伝しているとか、そんなことはまったくのナンセンスだ。近親結婚を続けてきたからなんて言ったら、じゃあ、天皇はどうなるとなってしまう。そもそも、今、純粋の日本人と思い込んでいる自分たちが過去、どのような血が入ってきたかなんてわからないのだ。血統や家に固執する人間は愚かである。血統は馬だけで十分だ。

少子化の影響で労働不足がいずれ現実化するのは明らかだ。労働者として移民を受け入れなければならない時代はすぐそこだ。僕は異民族が混ざり合う社会にデメリットよりメリットを、新しい日本文化のバイブレーションを感じる。しかし、村社会の歪んだ負の部分を代表するかのような部落問題や在日朝鮮人に対する差別感情を見ると、そういった人種が混ざり合う社会の実現はなかなか難しいだろうと思う。

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僕からするととても正気とは思えない差別がつい最近までは当たり前のように日本に存在し、奈良の柏原部落から始まった水平社運動、そしてのちの部落解放運動を経て、少なくとも表立って差別は行われない社会になったことは部落や同和の人々の努力は大変なものがあったに違いない。しかし、現在の同和運動をWebで調べていくと、現在、同和運動には何かきな臭い雰囲気を感じずにいられなかった。それは最初にあった解同と読売新聞社の記事に感じた釈然としない何かだ。

部落解放運動・同和運動は水平社運動をそのまま引き継いだ部落解放同盟(解同)とそこから枝分かれした共産党系の全国部落解放運動連合会(全解連)に二分される。このふたつはかなりいがみ合っており、傍目から見ると過激派の解同に対し、穏健派の全解連という構図のようだ。

1974年に解同の一派が八鹿高校の教諭らに対し暴力を振るい、傷害事件で有罪となった八鹿高校事件や最近では先の人権教育・啓発法でも共産党系の全解連はこの法案が自らの特権と組織の延命をねらう解同の思惑に沿って作成されたものと批判するなど、まさに内ゲバ状態である。確かにこの法案は個人の内心の自由を奪いかねない非常に危険なものなのだが。

同和地区とは自分たちは部落出身者だということを宣言した部落のことだ。それに対して宣言していない部落は被差別部落と呼ばれるらしい。インフラ整備が十分ではなく、貧しさに喘ぐ同和地区には今まで自治体から同和事業費等で多額の予算が割かれていた。

しかし、同和運動自体がいつの間にか同和利権産業 - 補助金目当て、金目当ての運動に成り下がったという批判も多い。また、差別をなくすための運動が差別がなければ生きていけない、だから差別を新たに生み出すという悪循環に陥っているとの批判もある。

京都市といった関西の自治体や公共団体には一定の同和地区出身者を雇用することが義務的か慣例的に行われているらしい。これはつまりアメリカでいうAffirmative action(差別撤廃措置)である。差別されてきた黒人といった少数民族を大学進学などで優遇、少しでも白人との経済格差をなくそうと60年代に爆発した公民権運動以来、行われてきたAffirmative actionが今、アメリカで曲がり角に来たのと同様、ある一定の成果を上げたことから国の同和対策特別措置法が失効、これを受け、同和事業を縮小・廃止する自治体が現れている。
» 国の財政特別措置、期限切れ四国新聞
» 大阪府:同和対策費50億円節減へ 新年度予算(毎日新聞)

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今年の6月、毎日新聞にこんな記事があった。「ネット掲示板への差別書き込みチェック 奈良の全市町村」というタイトルの記事では、奈良県内47市町村が参加する奈良県市町村人権・同和問題啓発活動推進本部連絡協議会(すんごく長すぎるから啓発連協と略されるようだ)が掲示板での差別発言を監視するインターネットステーションを設置するというものだった。これはSlashdotでもストーリーとなっていた。» 奈良県全市町村が共同でネット掲示板への差別投稿をチェック (Slashdot Japan)

その啓発連協のWebサイトを見ただけではそのインターネットステーションに関するリンクがまったく存在せず、果たして本当に行っているのかどうか非常に疑問だが、匿名で日々繰り返される部落に対する差別発言や中傷発言を監視、悪質な場合はプロバイダ責任制限法に則り、発信者情報の開示請求を行うとある。

確かに2ちゃんねるといった匿名掲示板で野放図に書き込まれる発言 - 部落は氏ねとか - は到底認められるものではない。部落解放同盟は以前からもこうしたInternetで蔓延る掲示板での差別や中傷に対し、厳しい姿勢を取ってきた。国に働きかけ、発信者情報の開示等を可能にする法律も今ではできた。しかし、やはりここで問題となってくるのは言論の自由・表現の自由である。» Internetと部落差別部落解放同盟東京都連合会

毎日新聞の記事のなかで、毎日新聞の御用学者? 井上宏・関西大学名誉教授 が次のようにコメントを寄せている。

人権を侵す中傷は、表現の自由に当たらないと考えるべきだ。ただ、プロバイダー法でも書き込んだ人物は特定しにくく、防御は難しい。それだけに、書き込み者を特定出来た場合は、刑事告訴するなど法的手段をきちんと取ることが大切で、奈良の試みは評価できる。

学者にしては何をいっているのかさっぱりわからないコメントだが、井上教授が言うように、個人に対する中傷については言論と見なされるべきではない。発言が単なる中傷だった場合、憲法21条Great Forestの情報工房)は適用されず、逆に名誉毀損で訴えられることとなる。しかし、それが個人に対する中傷・差別発言ではなく、部落全体に対する差別発言であった場合、どうなるのだろう?例えば、ある人間が掲示板で部落民は穢多・非人、汚らわしい人間だと発言した場合、これもまた検閲対象となるのか?

僕の答えは否である。それがいくら間違った感情、誤った考えだったしても、そこには言論の自由が保障されるべきだ。その発言が一部で間違った考えを助長させるかもしれないが、そのような恥ずべき主張に大多数が傾倒することは決してないソサエティであるべきだし、今日の日本はそんな不愉快で愚鈍な主張に耳を傾ける社会ではないと思う。

単なる個人が差別心を持つことはその人の自由である。その差別心を公に発表することもまた自由であるべきだ(政治家や公の立場にいる人間は例外になろう)。それに対して、暴力ではなく言論で立ち向かうのが自由主義の国で戦う唯一許された戦闘手法である。言葉狩り灘本昌久)を行ったり、差別発言を行った人間を糾弾会に呼びつけ、そこで「学習」させるような行為はいたずらに反感や恐怖心を煽るだけだ。

僕にはこの糾弾会というものがどうも全体主義を痛烈に諷刺したオーウェルの寓話「動物農場Animal Farm を思い起こさせる。糾弾会と農場主から解放された家畜たちが集うミーティングがシンクするのだ。そこには個人個人の思想や考えは関係なく、すでに決められた主張があるのみ。そこで多数の者がひとつの思想を背景に存在し、発言する世界。

部落差別は社会悪であることは否定しない。結婚相手が部落かどうか気にする人間を僕は軽蔑するし、部落の人間だから就職できないなんてことが許されてはならない。しかし、今の解同が行っていることは個人の精神まで入り込んで部落差別と名のつくあらゆるものを社会から葬り去ろうとしているかのように思えてならない。

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