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first created: 2003-08-12
last modified: 2003-08-14

2003-08-12

patriot games

politics and freedom

昨日、テレビ朝日の TVタックル で「愛国心の正体」なんて話をやっていた。政府が目指している教育基本法法庫)改正をめぐり基本法に愛国心を盛り込むかどうか論議されている今、文部科学省の先導ですでに始まっている愛国心教育の是非について、いつものタックル流に出席者がわいわい騒ぎ、たけしが最後にオチをつけて終わるというものだ。出演者は左からは田嶋陽子上田哲(それに大竹か)、右からはまたもや自由党西村眞吾と漫画家 江川達也、そして政治評論家の三宅久之だった。

田嶋と上田が言うことは容易く予想できるし、実際、ふたりの馬鹿が言っていたことは 国家=権力=悪 という安易な発想から「国家」(「母国」や「郷土」を愛するのはいいんだってさ)を愛するなんてとんでもない、民意から離れた国家を愛すことができるように変革しろ、話はそれからだという感じだった。しかし、愛国心を語る上で、そもそも立脚点が間違っている。

上田や田嶋の言う「国家」とは英語でstateを意味するものだろう。その点では国家が権力というのは確かだし、権力なき国家というのは存在しない。しかし、江川や西村が指摘していたように、現代国家、特に日本や欧米の民主主義国家ではその国家を構成するのも国民であれば、国家の代表者(いわゆる代議士)を選出するのも国民である。国家=権力=悪 という図式は簡単には成り立たない。

しかし、仮に国家を愛するとすれば(僕は積極的に国家なんぞ愛したりはしないが)、その国家とは英語でnationを意味する言葉になるはずだ。nationとはCambridge Dictionaries Onlineによると

1 [C] a country, especially when thought of as a large group of people living in one area with their own government, language, traditions, etc:

とある。自分たちの政府・言語・伝統といったものを持つ集団が構成する国=国家 ということになろう。これに対してstateは単にpolitical body(政治組織)として語られるわけだ。だから愛国心を語るのであれば、stateを愛するのではなく、日本というnationを愛するという前提で話を進めなければならないはずだ。

上田が公共の電波を使い、強烈な電波を飛ばす一方、西村の語った「少年犯罪と教育における愛国心の欠如」をリンクさせる論法もまた間違いだ。江川達也の言う、愛国心を教える前に日本の成り立ちといった歴史をまず教えろという主張が正しい(これには西村もひたすらうんうんと頷いていたが)。

結局のところ、学校教育で国を愛せなんてやったって意味がないのだ。三宅久之がイギリスでは学校の先生が他国に侵略されそうになったら戦え、大人になったら税金を払え、と堂々と教えているなんて話をしていたが、少なくとも僕がイギリスにいたときに一般の人から愛国心を感じることはなかった。逆に第2次世界大戦後、大英帝国が崩壊し、普通の国になってしまった自国に対して諦めのような気持ちが強かったように感じる。

しかし、そんな彼らでも国が攻撃を受けたときは戦う。勿論、フォークランド紛争時でさえ日本と同じように戦争に反対する国民はいた。しかし、大部分の世論はサッチャーを支持した。そしてイラク侵攻の際もアメリカのように盲目的に政府を支持するような愚鈍な反応を示すことはないものの、実際に戦争が始まれば、政府を支持する声が高くなった(今はブレアが国民に嘘をつき、戦争支持に世論を欺いたかどで大変だが)。

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愛国心とは教わるものでもないし、教えられるものでもないのだ。一国の国民として生活しているなかで自然と湧き出てくるものであるはずだ。そして、北朝鮮がもし攻めてきたら戦う、そのような愛国心が当たり前のように国民の一致した感情が湧き起こるような国であるはずなのだ。問題はそこにどうしても疑問符がついてしまうことだろう。

左翼は愛国教育と聞き、すぐさま戦前の日本の狂信的な愛国心と結びつける。戦後生まれ、豊かな日本社会しか知らない僕にはその当時の国民が何故に盲目かつ狂信的にその当時の軍事政府を支持したのかどうかははっきりとわからない。軍部に騙されたとするのも国民の責任逃れに聞こえるし、かと言って日本国民が積極的に戦争を求めていたとも考えにくい。

ひとつ確かなことは当時の日本にはSamuel Johnsonが定義する愛国者 patriot は殆どいなかったということだ。彼の政治パンフレット The Patriot でこう書いている。

A patriot is he whose publick conduct is regulated by one single motive, the love of his country; who, as an agent in parliament, has, for himself, neither hope nor fear, neither kindness nor resentment, but refers every thing to the common interest.

愛国者とはたったひとつの動機 - 自分の国を愛する - によって行動が決定される人間のことだ。(議会の一員として)愛国者は希望でも恐怖でもなく、親近感でもなく憤怒でもなく、すべてのものを(国民の)共通の利益として考えられる人間だ。

現代社会ではpatriotismという言葉がネガティブな意味で捉えられることが多い(アメリカを除く)。前述のDr Johnsonは Patriotism is the last refuge of a scoundrel. とも語り、愛国主義は「悪党」の最後の足掻きと皮肉っている。それはナショナリズム nationalism という言葉が常にネガティブな意味として用いられることと似通っている。どちらも誤った使い方をされれば、それは単に自分たち国民にとっても害を与えるだけだ。戦前の日本然り、ドイツ然りだ。

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トム・クランシー原作、ハリソン・フォード主演の映画「パトリオット・ゲームPatriot Games では北アイルランドのテロ組織IRAに命を狙われることとなったフォードが演じるCIA分析官ジャック・ライアンの家族を守る戦いが描かれる。映画の出来としては同じジャック・ライアンのシリーズでは「今そこにある危機Clear and Present Danger の方がずっといい。「今そこにある危機」はサスペンス・アクションとして本当に面白い。

同じハリソン・フォードとブラッドピットが共演した映画「デビル」でもそうだが、アイルランド系アメリカ人が過去、多額の資金援助を行ってきたからか、ハリウッド(アメリカ)はIRAを描くのが下手だ。ていうか、北アイルランド(アルスター)でプロテスタント(英国側)に虐げられてきたカトリック系住民のナショナリズムを真っ向から決して描こうとしない。「パトリオット・ゲーム」でもIRAは残忍だが、自分の肉親の復讐しか考えていないテロリストとしか描かれておらず、映画自体は単なる私怨もので終わっている。これでどこが「パトリオット・ゲーム」なのかがわからない。

そんな映画と違い、実際のIRAの兵士はプロテスタントによる迫害の長い歴史から自らを解放すべく、テロリズムという手段を用いて北アイルランドにいるカトリック教徒のナショナリズムを代表する存在となった。その誤ったナショナリズムは英国陸軍による無差別殺人 Bloody Sunday - この事件を歌ったU2Sunday Bloody Sunday ほど強く、激しく、強烈に僕らの心に迫ってくる政治ソングはない - が、プロテスタント勢力による構造的なカトリック教徒への差別が助長してきた。それはIRAによる1998年、28人の無垢の命を奪い去ったOmaghでの無差別爆弾テロ (Guardian Unlimited)を生み出す。醜い愛国心やナショナリズムがもたらした帰結がこれである。

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現代の日本ではどうか?番組で紹介されていた雨宮処凛が結成した右翼(愛国)バンド 維新赤誠塾 を生み出したものはなんだったのか?(主張が浅はかで、見た目がかなりきしょい彼らを番組に持ち出したのは反右翼のテレ朝の陰謀と勘ぐりたくなるが。)日本にも散見する誤った愛国心やナショナリズムの発露はどこから生まれくるのだろう?

その答えが日本の戦後教育と経済一辺倒に歪んだいびつな日本社会にあることは確かだ。日教組(なんだこの気持ちの悪いサイトは!)を始めとする左翼がいくら弁護しようとも、日本の伝統・歴史を軽視した教育、戦争の負の面にしか目を向けさせない教育、そして理想を恥ずかしげもなく謳ったまやかしの日本国憲法の下、アメリカの核の傘に取り込まれることで一心に金儲けだけを追い求めてきた日本社会に問題の根があるのだ。

左翼が忌み嫌う外国人嫌いで誤ったpatriotの代表のような東京都知事 石原慎太郎自由主義史観を主張する 新しい歴史教科書 を生み出したのは彼ら自身が盲目的に守ろうとする戦後社会という矛盾に彼らは気がついていない。勿論、この歪んだ社会から健全な愛国心が芽生える社会に立ち返らせるために、振り子を極端に右に持っていく必要はない。

Samuel Johnsonはこうも言っている。

A patriot is necessarily and invariably a lover of the people.

そう、愛国者とは人々を愛する人間なのだ。これは西村眞吾が 人間愛のなかに愛国心が存在する と語っていたことと一致する。そして人を愛することが授業で学ぶことができないように、国を愛することも授業では教えられない。人間を愛することが学校生活を経験することや個人個人が属するコミュニティのなかで育まれていくことと同じように、国を愛することは学校などで日本という国(の偉大さ)を学ぶと同時に外国の文化に直接接するようになれば、自然と育まれて行くに違いない。

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