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first created: 2003-05-02
last modified: 2003-05-02

2002-09-10

french letter

computer and internet

Slashdot Japanに「コンドームが売れないのはパソコンの普及が原因?」というネタを見つける。そのネタ元はデイリースポーツonline。その記事では、厚生労働省によるとコンドームの出荷量が1999年から激減しており、コンドームと言えばオカモトの業界最大手オカモトの担当者はその激減の原因をInternetに押しつけているというものだ。深夜遅くまでInternetをする若者が増え、寝不足からセックスものが減ったのが原因という素晴らしい洞察力。

セックスネタになるとレスポンスが途端によくなるSlashdot Japanも笑えるが、自分の業界の不振をInternetに罪を着せるやり方は先日、ついに幕を閉じたNapsterとアメリカ音楽業界との訴訟でもわかる通り、近頃、流行りだ。CDが売れないのはInternetで不法なファイルのダウンロードが行われているからだ、だからP2Pサービスは禁止しろ云々。

CDとして保存しておきたい気持ちにさせないほど魅力のない音楽をひたすら大がかりな宣伝とメディアへの露出でしか販促を行うことのできなかった音楽業界に僕は非があると思うのだが、コンドームの激減の原因として以下のものが考えられる。

  • AIDS (HIV)の問題が一段落しているという世間の妄信からsafe sexをするものが減った
  • できちゃった婚の流行りから中出しするものが増えた
  • pill解禁からゴムで避妊するものが減った
  • セックスに興味がない、もしくは肉体との接触を嫌う若者が増えた
  • 女性がセックスに対して貪欲になり、生でないとイヤ♥という女性が増えた
  • 今日は生理日だからと嘘をつく女が増えた
  • その嘘に引っかかる男が増えた
  • 不況でホームレスが増え、セックスが減った(きれいなからだで寝たいもんね)

僕は小心者だから子供ができてしまったらと考えるとセックスごとではなくなるのでいつもきちんとはめる男だが、では相手がpillを飲んでいるから大丈夫♥って言ったらどうするのかと訊かれると困る。または原因6のようなことが起こったらどうするのか?

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コンドームによる避妊のいちばんの問題点はセックスという愛し合うふたりが精神的にも肉体的にも究極に接近し、お互いの存在を共有し感じ取る、ロマンスに溢れた場に水を差さざるを得ないことだ。せっかくいい感じで盛り上がり、ベッドの上で(時には床の上、椅子の上、テーブルの上で)愛を交わし合っているとき、男はもぞもぞと片手でコンドームの包装を破き、自分の一物に被せなければならない。相手に被せてもらうという手もあるが、相手のコンドームの扱い方があまりに巧すぎたとき、それは諸刃の剣となりかねない。彼女に対して風俗疑惑が頭の中をよぎり始めるからだ。

コンドームのもたらす気まずさはセックス後にもやって来る。いかにスマートにコンドームを外すか、それが問題だ。いくら素晴らしい時を過ごしたとしても、彼女が横たわる傍らでそっと彼女のうなじを撫でている僕がいたとしても、僕の一物には使用後のコンドームがだらっと被さっている。この状況が僕には嫌で嫌でたまらない。その状況を想像すると情けなくなってくるのだ。だからといってコンドームを外し、ティッシュにくるんで捨てる自分を想像するとまた嫌になる。そんな姿を相手に見せたくないのだ。

映画やテレビで愛し合うふたりのシーンは多い。しかし、なぜかわからないがどのカップルも避妊のことなんてそっちのけでふたりの愛を確認することに忙しい。例えば、ジェームズ・キャメロンの出世作「ターミネーター」ではどうだ?リンダ・ハミルトン演じるサラ(正確にはセーラだが)とサラを守る任務を帯びて未来からやって来たマイケル・ビーン演じるカイル・リースと熱く寝るシーンがあるが、このとき、ふたりはコンドームのことなどまったく考えてもいない。あ、だから子供をはらんでしまうんだ。

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僕はやはりコンドームは使用するべきだと思う。避妊に加えて性病の防止という意味合いもある。これからはどんなこと(嘘)を言われても使うことにしよう。別にオカモトを使うとは限らないが。また、使う場があるのかという質問はなしだ。そんなことは大きなお世話だ。ほっといてくれ。

北の国から2002 遺言

books and films

9月6日、7日と2夜連続でドラマ「北の国から」最終章、「北の国から2002遺言」がフジテレビ系列で放送された。仕事で見られない僕はビデオに録っておいた。前・後編とも3時間という長さがあり、いざビデオを見ようと思っても少し臆するところがあった。最近、長編の小説も読むことができなくなってきたが、6時間に上る録画撮りされたドラマもなかなか厳しいものがある。

昨日、仕事が休みだったこともあり、真っ昼間からそのビデオを再生し始めた。しかし僕はドラマが始まって数分もしたらすでに倉本聡が奏でるこの愛情をテーマにした長尺の物語に引き込まれていた。

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「北の国から」が初めてドラマシリーズとして放送されたのは1981年に遡る。実に21年前のことだ。僕はこのドラマシリーズを見ていない。昼間に再放送されていたものを見たのだ。その後、スペシャルドラマとしてこの物語は続いてきた。前回の1998年に放映された「北の国から'98時代」まで計7本制作された。

北海道の開拓民の家系である田中邦衛演じる黒板五郎と別れた女房のもとにいた兄妹−純と蛍−が東京から五郎の住む北海道の山奥、富良野にやって来るところから始まったこのドラマは純と蛍が成長していく姿とそれを支える五郎、そして周りの人々との交流をその時代を通して描き続けてきた。今回はその完結編だったが、吉岡隆演じる純の恋と五郎の長年の友人である中畑材木店主人、中畑和夫(地井武男)の奥さんの死を軸に物語は進行する。

前回、破綻した牧場経営の借金を背負って富良野を追い出され、各地を点々として働く純は知床半島にある漁業の町 羅臼町 で内田友紀演じる結という旦那に女と逃げられた「人妻」と知り合う。この内田友紀が非常にかわいらしい。強気で、しかし内に脆さを抱えた「人妻」を演じる彼女は悪くない。いい女優さんになってきたと思う。「人妻」であることを知らずに付き合い始めた純は唐十郎がダイナミックに演じる逃げた夫の父親−通称トド−との交流を通し、現実から逃避するのではなく現実を直視して生きることを学ぶ。それが幸福へのいちばんの近道であることを知るわけだ。

一方、富良野では純と一緒に牧場の借金を背負わされた正吉の妻・蛍(吉岡隆とともにこの21年間演じてきた中嶋朋子)が息子・快の育児の傍ら、看護婦として働く苦労と正吉と連絡の取れない苛立ちと闘っていた。その父である五郎は定期検診から自分が癌に冒されていると勝手に思い込み、ガッツ石松が演じる成田新吉から勧められ、遺言を書き始める。この遺言が今回のドラマのサブタイトルになっているわけだ。

そしてその五郎たちのそばで中畑のおばさんの癌が進行する。昨夜、「ドキュメンタリー 北の国から」という「北の国から」の撮影現場や物語に潜む現実の物語で構成した番組が放送された。その中で、このドラマの監督である杉田成道の妻、中畑材木店のモデルとなった実在する材木店の奥さん、そして中畑和夫を演じる地井武男の奥さんがすべて癌であまりに短い一生を終えたことを知る。そう、この物語は倉本聡曰く「材木店の奥さん」への鎮魂でもあった。

当初、地井はこの脚本からどうしても演じる気にはなれなかったらしい。しかし、地井はそのときまだ存命していた癌と闘う奥さんから勧められて出演を決心した。おかげで今回、地井は鼻水を垂らしながら泣きじゃくるシーンばっかり演じることとなった(田中邦衛曰く「役者として表現することすらできない感情」)。

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「北の国から」のもっとも大きなファクターは涙だ。皆よく泣く。五郎は人目を憚らずよく泣くし、一応みたいな感じで出演した宮沢りえもその短い時間、涙とともに消えていった。勿論、純も悔し涙と自分の不甲斐なさから泣いたし、蛍は将来の不透明さ・苛立ちから涙を流した。そして僕も泣いた。

ドラマの最後、蛍が行方のわかった正吉のもとに向かうシーン。富良野の駅で五郎、純とその恋人・結、そして五郎の妹である竹下景子(かわいらしく年をとったものだ)演じる雪子とともに蛍と快は別れを交わす。孫の快とどうしても離れ離れになるのが悲しい五郎はホームを去っていく一両編成の汽車の窓を叩きながらいつまでも離れようとしない。駅員に制止され、ホームの先で泣きじゃくる五郎を見ながら、僕は不覚にもうっすらと涙を流してしまった。

人が泣く、それはこのドラマの主人公たちが流す涙のように時として悔し涙かもしれないし、嬉し涙からもしれないし、別れの悲しみから流す涙かもしれない。僕が泣くことは滅多にない。男というのは五郎や中畑のおじさんのように簡単に涙を流してはいけないものだと信じている。

蛍と快との別れのシーンで五郎が雪の上をのたうち回っているあいだ、純のナレーションが入る。そんなべたな父親が嫌だった、昔だったらそんな恥ずかしいことするなと言っていたかもしれないが、今はそんな父が好きだというような内容だったと思う。それは自分の感情を抑え込むことで逆に現実から逃れようとしてきた自分がその感情を素直に受け止め、現実と直面していくことを学んだ純を写し出している。僕はどうして涙を見せないのか?

僕には五郎たちが経験した悲しみを共有できるほどの悲しみを経験したことはない。恋人との別れはあっても、それは僕の人生の中ではほんの些細な出来事に過ぎない。中畑のおばさんが亡くなったように、自分の短い人生の中で僕が真剣に全力で愛した人に先立たれたこともない。僕にはからだの底から絞り出されるような涙を流す要素が根本的に欠けているのだ。言い換えれば、僕は真剣に自分の人生を生きていないのかもしれない。

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結の旦那を演じた岸谷五郎を始め、脇を固める役者も素晴らしかった。涙の中にコミカルなシーンをところどころ挟んだ素晴らしいドラマだったと思う。しかし残念だったのはラストシーン、五郎が遺言を書くシーン、その遺言の内容にどうにもやり切れない気持ちが残った。

五郎の遺言は純と蛍に残すものは何もない、言い残すことはすべて伝えたように思うといった感じで始まる。そして、ふたりには物質主義に走らず、自然の中で慎ましく生きていくように諭す。脚本家倉本聡の頭に常にあったのはこのことなのだ。僕はここに矛盾を感じてならない。壮大なる富良野の大自然の中で21年間育まれてきたこのドラマは五郎の生き方とはまったく相反する、コマーシャリズムに頭の先から足の先までずっぽりと浸かったテレビ局という物質主義文明から発信されていることに。

feeling so-so

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